一筆入魂

フリーライター/編集者 山下久猛のブログ

2012
03/11
日記

あの日のこと

1年前の今日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
あれから1年経ったなんて信じられない。
それほどあの日の記憶は俺の心に深く刻み込まれてたってことだな。
そして何度も何度も思い出して語ってたからかな。
未だに「あの日、どうしてた?」って聞くし話すもんな。

「あの日」、俺は自宅で仕事をしていた。
1年に1度の一番厳しい某企業の冊子の編集が佳境だった。

最初微振動が来て、あ、地震だと思っていたが、またすぐ収まるだろうと思っていた。
しかし収まるどころかどんどん揺れは大きくなり、部屋が大きく揺さぶられるような感じになり、これはやばいと机の下に隠れようと思ったが、先のニュージーランドの大地震で半分になったビルの映像が脳裏に浮かび、部屋のドアを開け、階段を降り道路に出た。
うちのマンションはとても古くてボロいからだ。
地震で外に出たのは初めてだった。

外では電柱が揺れ、遠くの建設中の高層マンションのクレーンもかなり揺れていた。
外には同じく家から出た近所の人たちぱらぱらいた。
みな不安そうだった。


気がつくとまさに着の身着のままだった。
携帯も財布も持っていなかった。
これではいかんと思った。

揺れが収まると家に戻った。
上着を着こみ、財布と携帯をポケットに入れた。
Twitterをチェックすると「震源地は東北」という文字が見えた。
東北? 東京でこれだけ揺れるんだから東北はどうなっているんだろうとテレビをつけた。

やはり震源地は東北。宮城県沖。
そして予想される津波の高さに驚いた。
5m、10m。
これまで見たことのない数字。

そうこうしているうちにもう1度デカい余震が来た。
再び外に出た。
今度は財布と携帯を持っていた。


その後、テレビから流れる衝撃的な映像に愕然とした。
波というよりは海がそのまま盛り上がり、町を飲み込んでいった。
田畑を黒く染めていくあの光景、そして波に車が飲み込まれる映像は忘れようにも忘れられない。
今、まさに目の前で人が死んでいっている。
これは過去の映像でも作り物の映像でもない。
しかしLIVEの文字にも現実感を感じなかった。

水没する仙台空港。
荒浜、若林地区で死体が300体上がったというテロップに言葉を失った。
このときこれまでにないとんでもないことが起きていると痺れたままの脳で思った気がする。
それほどの衝撃だった。


夕方になると気仙沼が火の海になっていた。
脳裏に浮かんだのは「壊滅」、「地獄絵図」などの言葉。


首都圏では交通網が麻痺し、帰宅困難者が多数出ていた。Twitterでそんな人たちを受け入れている一時避難所情報や、交通機関の再開情報をRTしまくった。
何の役にも立てないが、せめて家にいた幸運な者として何かしたかった。
(そういえばその夜は森達也さんを囲む会が予定されていたのだが、3日前くらいになってやっぱり仕事的にきついと思ったのでキャンセルしたのだった)

おそらく3時頃までそんなことをしつつ、電車の再開を確認してからベッドに入った。
余震に備え、ベッドの前に靴を置いた。
翌日から5日間の出張取材のため神戸に入る予定になっていたのでそれも気になりなかなか寝付けなかったような気がする。
あれから原発事故、放射能汚染、買占めによる物不足、計画停電などいろんなことがあった。

こうやって思いだしてみてもあれから1年が経ったとは思えない。

おそらく被災した方々にとっては1年など何の区切りにもならないだろう。
復興までの道のりは遠い。


しかし被災した人たちのために、何かができる余力のある俺たちは何かをするべきだと思う。
それはどんな形でもいいと思う。
俺は俺のできることを今後もしていきたいと思う。

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