一筆入魂

フリーライター/編集者 山下久猛のブログ

2016
06/01
日記

【最近の仕事】オカムラWAVE+で池田武邦先生のインタビュー記事前編を書きました

今回のオカムラさんのWebマガジンWAVE+では、日本設計創立者の池田武邦先生にインタビューさせていただきました。


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池田先生は海軍士官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして沖縄海上特攻と太平洋戦争後期の三大海戦のすべてに参戦、武蔵、大和の最期を看取り、生還、戦後は建築家になり、日本初の超高層ビルである霞が関ビルを皮切りに京王プラザホテルや新宿三井ビルを中心となって設計した大建築家なのであります。

齢92にも関わらず、矍鑠とし受け答えしっかり、眼光いまだおとろえず。とにかくかっこいい! 漢として!

お話があまりにもディープすぎて全3回となってしまいました。
その第1回である前編が本日リリースされたわけですが、主に太平洋戦争の三大海戦に参戦した時のことを語っていただいております。お話をうかがいながら何度も鳥肌が立ったのですが、特にビンビンに立った箇所は以下のとおりなのであります。

「死体を処理したり内臓を集めてバケツに入れたりしていると、生と死が紙一重すぎて同じことのように感じるんだよ。立ってる位置が10センチ違っただけで生死が別れる世界。戦場における人の生き死になんて完全に運だよ。どこにいたら安全なんてことは全くない。今目の前にある死体が自分であっても何の不思議もない。本当に生も死も一緒。だから自分は今日は生き延びられたけど、明日はダメだろうという感じだった」

──死の恐怖は感じなかったのですか?
「死の恐怖なんて全くなかったなあ。そんなことよりも強烈にもっていたのは使命感かな。軍人として国を守るという職務を全うしなきゃならんという使命感だよ」

「(沖縄海上特攻の時は)今度こそ間違いなく死ぬと思ったけど、さっきも話した通り死ぬ覚悟なんてものはもうとっくの昔にできているから別にどうということはなかったよ(笑)。戦争が始まって、本当に自分の命に未練はないか確かめたくて刀を抜いて自分の腹に当てたことがあったけど、いざというときは躊躇なく切腹して死ねるなと思った。だからこの出撃の時も、これでやっと終わるなという非常にさわやかな気持ちだったね。遺書も書いてない」

こういうことを淡々と語るわけです。時には笑顔を交えて。だからこそ凄みがある。
池田先生こそまさに生ける伝説、ラストサムライというにふさわしい御仁なのであります。そしてこの時代の日本人はすごかったんだなあとしみじみ思います。ここまでのすごい日本人は池田先生で最後なのかもと思うと寂しすぎます。そういう意味でもラストサムライなのであります。

そんな御仁に直接長時間にわたってお話しをうかがうという栄誉に浴することができたのは幸甚の極みというほかなく、ライターとしても一生の思い出となったわけであります。

さらに撮影で2日費やし、別日に写真を拝借しにご自宅へ。
それゆえ記事も渾身の力を込めて、全身全霊で作りました。
ラストサムライの生き様、未来への提言をぜひお読みくださいいいい!!!!

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日本初の超高層ビル「霞が関ビル」が建設されたのは1967年。その設計チーフを務めたのが今回登場していただく池田武邦さんです。池田さんは二十歳の時、海軍士官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして沖縄海上特攻と太平洋戦争後期の三大海戦のすべてに参戦し、生還。その後建築家になり、日本設計を創立し、霞が関ビルを皮切りに京王プラザホテルや新宿三井ビルを中心となって設計。しかしある時期から超高層ビルの建設に疑問を抱き、長崎オランダ村やハウステンボスなど環境共生型のテーマパークの設計に携わりました。その後は21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。戦中、戦後の日本を駆け抜けてきた御年92歳の日本を代表する大建築家にこれまでの人生から得たこと、そしてこれからの未来を生きる人々に伝えたいことを語っていただきました。





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