昔から、世の中には2種類の人間しかいないとよく言われています。
命令する側、される側。
支配する側、される側。
だます側、だまされる側。
ヤる側、ヤラれる側。
などなどなど。
中でも、「取材する側、される側」というのが私の胸の奥底で、それこそこの仕事についたときからずっとくすぶり続けているモンダイなのですが、先日の「情熱大陸」を見ていて、改めてこう思いました。
やっぱ取材される側っていいなあと。
報道とかメディアって、言うまでもないけれど、取材される側がいなければ成り立ちません。取材される側とは、能動的かつ主体的に何かをしている人で、それが社会にとって伝える価値があると判断される人です。
簡単に言うとプレイヤーです。
彼ら・彼女らを取材して、民衆に伝えるのが新聞、テレビ、雑誌、最近ではWebなどの情報伝達媒体。いわゆるメディアです。
このメディアの隅っこで、約16年情報を伝達するという仕事に携わってきて拭えないある思いがあります。
それは、やっぱり俺ってプレイヤーじゃないよなと。
やっぱり男として生まれてきたからにはいつかはプレイヤーになってみたいなと。
取材する側よりも取材される側になりたいなと。
仕事しに南極に行くか、南極に行く男を人々に伝えるために半年間日本で取材するか。
男だったらどっちを選ぶかってことですよ。
もちろん、男なら自分が南極に行きたいと思うじゃないですか。
そもそも、この仕事って他人のふんどしで相撲を取るようなもんだ、みたいなこともどっかで思ってたりするわけです。
取材対象者がいなければこの仕事って成り立たないわけだし、取材対象者から見れば、大物になればなるほどメディアなんて必要ない。
情報の受け手側だって、別にテレビや新聞や雑誌なんてなくたって普通に生きていける。
もちろん何かを伝えるという仕事もプレイヤーといえなくもないですよ。
取材して記事を書くという行為も間違いなく能動的な行為ですから。
それによって、今まで知らなかったことが知ることができてよかったとか、こういう人の存在を知ることで生きる勇気が湧いてきてよかったとか、読者・視聴者に喜んでもらえたり、良い影響を及ぼす可能性があるという意味では、プレイヤーと言えなくもないでしょう。(それをいってしまえば、プレイヤーでない人間なんていないとも言えるでしょうが)
特にジャーナリストと言われる人々は、伝える側であると同時にプレイヤーでもあるという稀有な存在だと思っています。
でも、やっぱり私のような普通のライターと取材される側=プレイヤーとの間には、明らかな違い、高い壁、深い溝があると思うんです。
さらに、私は残念ながらプレイヤー側になれる人間ではない。
これはあきらめではなくて、悟りに近い。
だからずーっとこの仕事をしながら、すごい人に会えば会うほど、ある種の劣等感みたいなものを持っていました。この仕事を続ける以上、心の奥底でかすかに青白くチロチロと燃え続けるこの後ろ暗い感情は消えることはないのでしょう。これは良い、悪いの問題ではなく。
だからといって、この仕事が嫌いだとか、仕方なく嫌々やってるというわけではもちろんありません。
矛盾しているようですが、この仕事が大好きだし、一所懸命に取り組んでいるつもりだし、やりがいもあるし、たまに誇りすら感じられるので。
でも、「情熱大陸」とか「プロフェッショナル 仕事の流儀」とかを観たりすると、あぁやっぱプレイヤーってすごいなぁ、あっち側の人間になりたかったなぁとときたま、正直、思うわけです。
さっき世の中には取材される側と、する側しかいないと書きましたが、正確に言うともう一種類います。
それは情報を受け取るだけの側。
そもそもこの仕事に就きたいと思った動機のひとつが、プレイヤーになるのは無理、かといって情報を受け取るだけでも物足りない、だからその中間の伝える側になりたいというものでした。
だからなるべくしてなったと言っちゃあそれまでなんですが。
そんな話はどーでもいーとして、仕事で南極とか宇宙に行ってみたい!
でも、もし「取材で」南極とか宇宙に行けることになったら、プレイヤーといえるのか? 答えはもちろん「否」です。
命令する側、される側。
支配する側、される側。
だます側、だまされる側。
ヤる側、ヤラれる側。
などなどなど。
中でも、「取材する側、される側」というのが私の胸の奥底で、それこそこの仕事についたときからずっとくすぶり続けているモンダイなのですが、先日の「情熱大陸」を見ていて、改めてこう思いました。
やっぱ取材される側っていいなあと。
報道とかメディアって、言うまでもないけれど、取材される側がいなければ成り立ちません。取材される側とは、能動的かつ主体的に何かをしている人で、それが社会にとって伝える価値があると判断される人です。
簡単に言うとプレイヤーです。
彼ら・彼女らを取材して、民衆に伝えるのが新聞、テレビ、雑誌、最近ではWebなどの情報伝達媒体。いわゆるメディアです。
このメディアの隅っこで、約16年情報を伝達するという仕事に携わってきて拭えないある思いがあります。
それは、やっぱり俺ってプレイヤーじゃないよなと。
やっぱり男として生まれてきたからにはいつかはプレイヤーになってみたいなと。
取材する側よりも取材される側になりたいなと。
仕事しに南極に行くか、南極に行く男を人々に伝えるために半年間日本で取材するか。
男だったらどっちを選ぶかってことですよ。
もちろん、男なら自分が南極に行きたいと思うじゃないですか。
そもそも、この仕事って他人のふんどしで相撲を取るようなもんだ、みたいなこともどっかで思ってたりするわけです。
取材対象者がいなければこの仕事って成り立たないわけだし、取材対象者から見れば、大物になればなるほどメディアなんて必要ない。
情報の受け手側だって、別にテレビや新聞や雑誌なんてなくたって普通に生きていける。
もちろん何かを伝えるという仕事もプレイヤーといえなくもないですよ。
取材して記事を書くという行為も間違いなく能動的な行為ですから。
それによって、今まで知らなかったことが知ることができてよかったとか、こういう人の存在を知ることで生きる勇気が湧いてきてよかったとか、読者・視聴者に喜んでもらえたり、良い影響を及ぼす可能性があるという意味では、プレイヤーと言えなくもないでしょう。(それをいってしまえば、プレイヤーでない人間なんていないとも言えるでしょうが)
特にジャーナリストと言われる人々は、伝える側であると同時にプレイヤーでもあるという稀有な存在だと思っています。
でも、やっぱり私のような普通のライターと取材される側=プレイヤーとの間には、明らかな違い、高い壁、深い溝があると思うんです。
さらに、私は残念ながらプレイヤー側になれる人間ではない。
これはあきらめではなくて、悟りに近い。
だからずーっとこの仕事をしながら、すごい人に会えば会うほど、ある種の劣等感みたいなものを持っていました。この仕事を続ける以上、心の奥底でかすかに青白くチロチロと燃え続けるこの後ろ暗い感情は消えることはないのでしょう。これは良い、悪いの問題ではなく。
だからといって、この仕事が嫌いだとか、仕方なく嫌々やってるというわけではもちろんありません。
矛盾しているようですが、この仕事が大好きだし、一所懸命に取り組んでいるつもりだし、やりがいもあるし、たまに誇りすら感じられるので。
でも、「情熱大陸」とか「プロフェッショナル 仕事の流儀」とかを観たりすると、あぁやっぱプレイヤーってすごいなぁ、あっち側の人間になりたかったなぁとときたま、正直、思うわけです。
さっき世の中には取材される側と、する側しかいないと書きましたが、正確に言うともう一種類います。
それは情報を受け取るだけの側。
そもそもこの仕事に就きたいと思った動機のひとつが、プレイヤーになるのは無理、かといって情報を受け取るだけでも物足りない、だからその中間の伝える側になりたいというものでした。
だからなるべくしてなったと言っちゃあそれまでなんですが。
そんな話はどーでもいーとして、仕事で南極とか宇宙に行ってみたい!
でも、もし「取材で」南極とか宇宙に行けることになったら、プレイヤーといえるのか? 答えはもちろん「否」です。
取材をすることは、インタープリターの始まりだと思います。
インタープリターはプレーヤーに成り得ますよね。
私は今日も田舎で「生き抜く(息抜く)力」を伝えていきます。
大竹さん
いつもお世話になっております。
コメントありがとうございました。
初コメントなのでうれしかったです(笑)。
大竹さんは立派なプレイヤーですよね。
しかも大自然相手の。
ほんとに尊敬してます。